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カウンセリングに通って-大学時代の思い出

 

田畑

 今からちょうど30年前の1985年頃の話である。私はその頃、兵庫県尼崎市のカトリックの私大の英文科の3年生だった。JR沿いの下宿で寝起きして、毎日大学に通っていた。サークルは演劇部だった。大体において当時の私の学生生活は充実していた。

 だが、その年の10月頃になって、急にまるで何かが爆発でもするかのように私の心をこれでもかこれでもかとたたき始めたのである。それは何であるかはわからなかったのだが、とにかく私はそれを取り除けなければ日々の生活を送ることができないと思った。

 そういう訳で当時毎週のように教えてもらっていた上智出の心理学の先生にそのことを相談した。するとその先生は、自分は事情があって今はカウンセリングをやめているので、京大を紹介するからそこに行ってみたらどうかと言われた。私はその先生の言われる通りにした。そして翌週の土曜日の夕方に私は京都大学教育学部教育心理相談室のとびらをたたいた。

 私の相手をしてくれたのは若い男の人だった。大学院の学生だろうと私は思った。私はその人を前にしてテーブルをはさんで座り、自分の悩みを話し始めようとした。だが、話そうとしてもそれは言葉にならず、結局最初は1時間のカウンセリングの時間のうちで話すことができたのは15分か20分ぐらいだった。

 あとでわかったことだが、それはユング派の臨床心理学を用いたカウンセリングで、話し手(クライアント)が話さなければ、話は絶対に前に進まないし、薬も出ないし、精神医学(病院)とは考え方が根本的に異なっていることを知った。

 その場はあまり楽しい所ではなかった。それは普段自分がかくしていることを明らかにするためであるのだが、精神的にあまりよくないものだった。

 だがそれが終わった後は京大の前にあったイタリア文化センターのとなりにあった喫茶店でコーヒーを飲んだりケーキを食べたりして私なりに京都でのひとときを楽しむことができた。それは尼崎では決して味わえない洗練されたものだった。

 何回かその場を訪問したある日の土曜日、私はひとことも言葉を発することができなくなってしまった。何をどう話していいかわからないのではなく、これをこういう風に話したらカウンセラーの男の人にバカじゃないかと思われると思って、何も話せなくなってしまったのだ。

 ユング派はクライアント自身が治っていくことをもっとも重要視しているのでクライアントがひとことも話さなければ、カウンセラーもひとことも話してはいけないのである。つまり、その時私はカウンセラーの男の人と1時間“にらめっこ”をしていたのである。

 そんなことを通り越してそれ以後は普通に会話するように自分の思いをカウンセラーに話すことができるようになった。だがその後、半年ほどが過ぎた頃から私はその時間になっても京大に行くことができなくなっていた。

 行けなかった時はカウンセラーから必ず電話がかかってきた。だから翌週は行こうと思うのだが、その翌週も行けないのである。

 そのうち私自身がカウンセリングを必要としていないのだということに気づいた。普段の生活がうまく進んでいて、大学生活を楽しむことができるようになっていた。4年生になり、春の公演で役にもついていて、毎日芝居のけいこを頑張ってやっていた。

 その後私はそのカウンセリングルームをつくった河合先生の本をよく読んだ。小説よりも河合先生の本の方をよく読んでいた時期があった。河合先生はある本の中でこう言われていた。病気が治るためには薬だとか、誰かが働きかけてもそれはよくなくて、クライアント自身の力が必要であると。しかも、そのパワーはものすごく大きな爆発とも思えるもので、他人から見たら、後退していると思えることもあるが、それらの多くは病の回復にとても必要なものなのであって、自主性を重んじなくてはならないのだと先生は語っておられたように思う。

 私が参加している作業所・スペースぴあの理事長である木村さんは心の病の回復にはぼくたち自身の力が必要だしそれは必要なことなんだと常日頃から口をすっぱくして言われているが、それはどちらかというとユング派の心理学に近い考え方によるものだと私は思う。そして私もまたその考え方に賛成している。何故ならば、精神薬を服用してごろごろしているだけでは何も始まらないからである。真の回復は私達自身の行動にかかっている。私は本当にそう思っている。

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